【みよしヒストリー】三次の歴史をご紹介します|三次市観光 Walk @round Miyoshi(三次観光推進機構公式ウェブサイト)|広島県三次市

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【みよしヒストリー】三次の歴史をご紹介します

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1. 三次の町づくり

三次の町づくりは、今から約400年前、三次地方を支配していた三吉氏が、畠敷町(はたじきまち)の比叡尾山城(ひえびやまじょう)から、三次町の比熊山城(ひぐまやまじょう)に移ったことから始まります。三次町は、西城川・馬洗川(ばせんかわ)・可愛川(えのかわ)という3本の川が流入し、物の移動が便利であったこと、山陰・山陽を結ぶ陸上交通の要であったことなどが、移転の理由として考えられます。

豊臣秀吉が天下を統一し、長く続いた戦乱の時代は終わりました。三吉氏は、自分の領地を豊かにすることを目指し、家臣に命じて、三次町内の屋敷や境内を割り当てたり,人工堤防を作ったりしたと考えられています。しかし、関ケ原の戦い(1600年)で、領主・毛利輝元が敗れたため、三次町を退去することとなり、町づくりは未完成となりました。

関ケ原の戦いの後、毛利に代わって広島を治めたのは福島正則(ふくしままさのり)です。彼は、三次に家臣の尾関正勝(おぜきまさかつ)を配置しました。現在の尾関山(おぜきやま)の名前は、尾関氏の館があったことに由来します。

元和5(1619)年、福島正則は広島城を幕府に無断で改修した事により改易(かいえき)(身分・屋敷を幕府に没収されること)となり、これに伴って尾関氏も三次を退去。この治世はわずか20年足らずで終わることとなりました。

本格的に三次の町づくりが行われるようになったのは、三次藩の時代になってからです。

 

2. 三次藩

三次町は、広島藩 初代藩主・浅野長晟(あさのながあきら)が治めていました。1632年に長晟が亡くなると、子の光晟(みつあきら)が広島藩を継ぐことに。しかし,光晟には長治(ながはる)という義兄がおり、この長治に新たに領地の一部を与えてできたのが三次藩です。三次藩 初代藩主となった浅野長治は、周囲の川を天然の堀に見立てた総廓(そうぐるわ)構想による城下町をつくり、麻・紙・綿・漆・鉄などの殖産興業にも積極的に取り組みました。

三次藩の領地は、主に三次郡(旧三次市の一部、三和町の一部、君田町、布野町、作木町)と恵蘇郡(えそぐん)(庄原市口和町、比和町、高野町、旧庄原市の一部)でした。

また、この領地以外に、離れた領地「飛領(とびりょう)」として、御調郡吉和(みつぎぐんよしわ)、仁野村(にのむら)、世羅郡賀茂村、佐西郡草津浦(ささいぐんくさつうら)、豊田郡忠海村(とよたぐんただのうみむら)、高田郡上甲立村(たかたぐんかみこうたちむら)がありました。豊田郡忠海村の忠海港(現在の竹原市忠海港)は、藩主の参勤交代や、年貢米・産物の輸送に重要な役割を果たし、御調郡吉和の塩田からとれる塩は、三次の人々に供給されました。

しかし、三次藩は跡継ぎに恵まれず、1720年、わずか88年間で歴史を閉じることになりました。

 

3. 三次町の発展

三次藩は断絶しましたが、三次町には、人や物の往来が多い広島・宮島・三原・尾道と同様に、県北で唯一の「町奉行所」が置かれました。両替や藩札の流通を行う「御札場(おふだば)」も設置されました。札場は、広島・尾道・三次の3カ所しかなかったのです。また、藩の貴重な収入源である年貢米を集積する「お米蔵」、同じく貴重な収入源である鉄を管理する「御鉄方役所」も置かれました。行政関係の建物・施設があることで、三次町は県北の政治・経済の中心地となっていきます。

人や物の往来が増えてくると,それらを運ぶための人と馬が必要となります。このため、三次地方の三次・布野・吉舎に人馬が常備されていました。これを「宿駅(しゅくえき)」といいます。島根県大田市大森(石見銀山)で産出された銀も、この宿駅を利用して尾道に運ばれていました。

さらに三次町では、「牛馬市」や、現在の宝くじに相当する「富籤」(とみくじ)などが盛んに行われ、これを目的に町外からも多くの人が出入りしていました。

 

江戸時代に書かれた史料「三次町国郡誌」より(口語訳)

「島根方面から、楮(こうぞ)や扱苧(こぎそ)が三次へ入ってきています。楮は吉舎・三良坂の村々へ売られ、扱苧は主に尾道へ出されています。鳥取方面の商人は木綿類を多く持ってきて広島方面へ売り、それは染物になっています。山陰の商人は肴類を多く持ち込んでいます。広島・海田方面の商人は、古手(ふるて)・小間物(こまもの)を持ち込んで、さらに山陰方面にまで出しています。三次の商人も麻・煙草を尾道方面へ持ち込んでいます。このため、三次町では年中、夥(おびただ)しい数の馬方(うまかた)が行き来しています」

楮、扱苧とは… クワ科の落葉低木。民間で薬用酒にして疲労回復に用い、樹皮は和紙の原料となります。

三次町絵図 文政2年(1819)三次町国郡志 吉岡家本付図

 

江戸時代に書かれた史料「芸藩通志(げいはんつうし)」より

「商売工匠店肆を列ね、北辺の一劇市なり」(しょうばいこうしょうてんしをつらね、ほくへんのいちげきいちなり)

三次には商人や職人の店が軒を連ね、北部の市場の一大拠点となっていたことがうかがえます。

三次地方史研究会 立畑春夫